自由という概念は,不自由という概念があってこそ初めて存在しうる。
自由は不自由の中にこそ泳いでいる。
真の自由は不自由さの中にこそ,ある,というべきか。
不自由さが幅を利かせては,窮屈だ。
不自由さが多すぎたら,野放図の横行に眉を顰めなきゃならん。
不自由さの境を余裕で横目に見ながら,それでもジェントルに自由を謳歌したいものだ。
自由の範囲について,ルールがないからといって,あまりにも野放図に行動すればぎくしゃくする。
逆に,自由な行動範囲について,足並みを揃えてないと不公平(人と違う歩き方をしているという程度の意味)だと主張し,歩き方のルールを定めすぎたら,あまりに窮屈だ。
我々の英知は,その端境を,一人ひとりの理性や知性,良識で,少しはぶつかり合いつつ,時に右に左に移動させつつ,うまいところに均衡させることではないだろうか。
それを最も得意とする組織こそ,人類の英知の根源として機能してきた…「大学」ではないのであろうか。
野放図が横行しすぎて,そしてそれはたとえ大学であろうと許容できなくなり,不自由さの範囲を増やし続けざるを得なくなれば…それは大学の自殺に等しい。
しかし,死に向かいつつも,やらなけばならないことはやらなくてはならない。
それが分かりつつも,それでもしなければならないとしたら…
なんと哀しい…
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