2025年10月30日木曜日

審査と,そして想うこと

教授への昇進審査を受けて以来,十数年ぶりに,他者からの審査を受けた。

自分より若い研究者とのやり取りは刺激的だ。

正直,時流に合わすの苦手だし,共同研究も苦手だし,自分の関心のあることにしか目を向けられない,現代的な研究者としてはきっと私は失格なのかもしれない,と思う時もある。

でも,私が研究者になろうと思ったのは,他者や時流への迎合ができないという,自分のパーソナリティをしっかり見極め,これで一応一人前になれるか,それとも野垂れ死にするか,その択一を覚悟したうえでのこと。

今さら迎合なんてできない。

私は私のしたい研究しかできない。

日本でのガラパゴスと言われようとも。

だからこそ,自分の研究に妥協は一切ない。

自分が好きな研究に,妥協という言葉はない。

矛盾する。

こんな指導教授のもとのゼミ生は苦労するだろう。

私にとって「研究」とは,妥協を許さないサンクチュアリ。

ゼミ生なら分かるだろう。

高尾山なら,良い。

でも,峻険な山を登りたいのならダメだ。

妥協は,即,死を意味する。

なぜ,私が…

君らに死んでほしくないし,君らが「たまたま」登攀できてしまって(再現性なく),社会にでて滑落する危険性を容認したくない。

大事なことは登攀することではない。

どう登攀したか,だ。

そのプロセスにおいて,どう振舞ったか,だ。

たまたま登攀できることはある。

でも,それは大事なことではない。

大事なことは,そのプロセスにおいて,必要な振舞いを,必要なだけ,できたか否か。

これである。

たまたま登攀できたことを,私は褒めない。

単純なそれは,これからの諸君の失敗の危険性を増す所業に他ならない。

褒めりゃ良いっていう世間の風潮は,絶望の生起の可能性を高めることに等しい。

真の愛は,君は間違っている,君らは間違っている,と声を大きくして警鐘を鳴らすことだと私は信じる。

繰り返しになるが…

大事なことは登攀できたかどうかではない。

どう登攀したか,だ。

悔しがるのは,登攀できたか否かに,ではない。

登攀中にすべきことをできたか,できなかったか,そこ,である。

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