大学は企業ではない。
大学の教員は,企業の従業員ではない。
学問には,大学には,教授会には,高度な自治が担保されなければならない。
我々は,半分は学生のために,半分は社会のために,教育・研究に従事しなければならない。
大学の経営者のために,学問を追究し,教育に勤しんでいるわけではない。
学問の場の様々な有り様は,その場に立つ我々が自分たちで決めるべきであるし,決めてきた。
私は子供のころから,あまり漫画を読んできた方ではないが,高校・大学時代に好きだった漫画がある。
「マスターキートン」
主人公の平賀キートン太一は,考古学の学徒であり,保険の調査員もしている日本人とイギリス人のハーフ。
イギリスの名門校出身でありながら,中退して軍に入り,特殊部隊で活躍したという経歴を持つ。
詳しくは覚えていないが,そのキートンの先生の話。
確かユウリ先生っていったかなぁ,その先生の回顧録のシーンが今でも忘れられない。
時代は,第二次世界大戦中のロンドン。
ナチスドイツの空襲後,救えるだけの人を救った後,破壊された校舎の瓦礫の上で,ユウリ先生は学生たちを集め,次のように言った。
「さあそれでは諸君授業をはじめよう!あと15分ある。」
こんな非常時に授業?と困惑する学生たちに向かって,先生は次のように言う。
「敵の狙いは我々英国民の向上心をくじくことだ。
そこで私達が学ぶことを放棄したら,それこそヒットラーの思うつぼだ。
今こそ学び,この戦争のような殺し合い憎しみ合う人間の愚かな性を乗越え新たな文明を築くべきです。」
政治家は,さらには効率のみを考える人たちは,戦時下において考古学を?と思うだろう。
政治家や近視眼的な経営者にゆだねていたら,その時代に役立つ学問や技術しか生き残れないかもしれない。
大学に高度な自治がなければ,時代の権勢に阿り,文明の礎は潰えて,独裁者の跋扈する暗黒の時代が到来することになるであろう。
我々を内向きという向きもある。
違う。
大学の自治は,あらゆる権力・権勢からのの自由であり,その意味でこれほど外向きの姿勢はないのである。
しかし,我々も身をたださなければならない。
大学の自治を隠れ蓑に,ただ安逸をむさぼっていないか?
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