本年度,500万円の予算もつき,間伐材のスギの小玉を創る運動を展開する。
その運動の本旨について,ちょっと考えてみた。
なぜスギの小玉を創るのか?
その問いに対して答えるとするならば,そこに無駄になっているスギがあるからと答えざるをえない。
間伐材の問題は,その根源を知れば知るほど難しい。
林業の専門家や多くの地方再生のプロがその解決に取り組んできたけれども,そのほとんどが成功には結びついてはいない。
このスギの小玉の制作運動についても,色々な効果(目的といってもいい)を指摘することはできる。
それはそれで,
それなりに意義深いとは思う。
しかし,どんな効果に結びつくのかを強く意識せずに,
ただ黙々とスギの小玉を創り続ける村がこの世の中にあっても良いのではないかと思う。
村の人,そして将来を担う子供たちが
黙々とスギの球を創り,
そしてスギと対話し続ける,
そんな運動があっても良いのではなかろうか。
そう,これは社会運動といっても良い。
社会を変革するのはいつも小さな一歩である。
この運動に予算がつくのは一年だ けだが,その一年間だけで運動を終わらせるつもりは毛頭ない。
一過性のイベントなどで終わらせるつもりは全くない。
予算がつく今年のカレンダーを捲り終えても,
私は学生たちと,村の人たちとこの運動を続けていきたい。
この運動を持続可能なものにするために,スギの球のプールを時として販売し,収益を得ていくことも必要かもしれないが。
この運動で,誰が幸せになるのであろうか?
誤解を恐れずに言うならば,それはスギの魂であり,そのスギを数十年前に植林した先人であり,その先人の想いに少しは応えられていることに想いを致した時の村人であり,広くこの運動に関わる人間であろう。
さて,明日の午後は,東京23FCのために大手小売業を訪問し,それからスギの小玉の運動についてブレストするために新橋へ向かう。
明日も忙しいが,闘志を前面に出して,ビシッといくぜ,ビシッと!
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