2013年5月11日土曜日

ある講義にて

火曜日の1限と金曜日の3限に原価計算論という講義を担当している。
そこでは,半期30回の講義の中で,20回の練習問題と,同じく20回の理論クイズのようなものを行っている。
そして,それらに一回あたり1.5点満点の評価をして,トータル30点(20回×1.5点)の平常点を与えている。
練習問題については,専門学校などで会計学を独自に勉強している学生と比べると,初学者の子は相対的にあまり点数が伸びない。
そこで,理論クイズのようなものを同時に実施し,練習問題による獲得得点と,そのクイズによる獲得得点のどちらか大きいほうを,その人の平常点としてカウントすることにしている。
これにより,初学者の子も平常点を不利なく獲得できるとともに,練習問題における不正を防止することが「ある程度」できている。
べつに練習問題についてカンニングしなくても,理論クイズの方である程度の平常点をゲットできるからである。
しかし,「ある程度」しか防ぐことはできない。

今年,私の原価計算の講義の履修者は243名。
しかも,実際の出席者もその9割はくだらない。
8号館の大きな教室を使わざるをえない。
その大きな教室で,すべての不正行為をたった一人で防げるわけがない。
私は,理論クイズがあるから,練習問題で不正をする必要はないであろう,そんなことをして自己を貶めるなと諭し,そのうえで学生を信用するしかない。

しかし・・・
どうしても不正は起こってしまう。

そこで,昨日の講義で,松下幸之助の講演のCDを聴かせることにした。
「心を打たれたある車夫の心意気」というタイトル。
内容はおおむね下記の通り。


まだ自動車もなく人力車の時代。
大阪駅の駅頭にならぶ人力車の車夫の中のある青年の話し。
ある日,細かい車賃を持たない客が,おつりを祝儀としてその青年に与えようとした。
しかし,その青年は,そのお金の受け取りを拒絶し,おつりをしっかり返したという。
松下幸之助はその話しを聴き,いたく心を打たれたという。


「その車夫は偉いと私は思うたんです。
たくさんの車夫のあるうちには,その五銭の,いわゆる祝儀に属するようなものをもろうて喜んでおる人もたくさんある。
しかし,その青年は,十五銭の車代を二十銭もらうということは許されないことだと感じたんでしょうね。
そこに私は,その青年の心の豊かさと申しますか,偉さと申しますか,正しさというものがあろうかと思うんです。
ただなにがなしに十五銭のところを走ったからというて五銭もらうということは,一人前の男子として潔くない。
そういう意味の金をとってはならない,というようなところに,その車夫の青年の心意気があったとでも申しますか,まあそういうことであった。
その人が後にえらい成功しはったんだと,こういうことを聞いたのが,私の耳にこびりつきまして,非常に私は感動をしたんであります。
この青年に負けないような心意気をもって仕事をしなくちゃならない,この青年に恥ずかしくないような商売の仕方をしなくちゃならないというのが,私の胸を始終,支配しておったと思うんであります。 
今日,幸いに多くの方々からごひいきをこうむって,今日の私の仕事が成り立っておりますことも,私はそういう意味の公明正大な心持によって経営されておるところに,ごひいきを頂戴いたしておるんだというような感じをいたしておりまして,ただ一言,その時に聞いたその感動は,今日も私の胸に脈々として生きておるんであります。」




原価計算論の授業を20分もつぶして,上記のようなCDを聴かせることには迷いもあった。
今の学生の心に響くのであろうかという不安もあった。
もし,響かないということであれば,その現実を知ることになってしまう。
そのことも恐ろしかった。



ところが・・・

240名近い学生の感想文のうち,ほんのごく一部を紹介したい。

「自分の身の丈に合わない処遇を受けることは,あとで辛くなるという言葉を聞いて,確かにそうであると思いました。
真面目にやっている人が馬鹿を見るような,ずるい行為は,やった時は軽い気持ちでも,ずっと後ろめたい気持ちが残ります。
成功するかどうかはともかく,自分が恥ずかしくないふるまいをしたいと思いました。」

「この言葉を聞いて本当にその通りだなと思いました。
語学の小テストとかでカンニングをしたことがあったけど,結局その時だけしかいいことはなくて,本番のテストの時に,とても苦労したことを覚えていたので,この言葉を聞いて,自分のような心が貧困な心なんだなと思いました。
そういう心を持った人は,一時的には良くても,最終的には絶対良くならないと思いました。」

「最初に聞いたとき,なぜ二十銭をもらわないのかと疑問に思ってしまった。
とっても恥ずかしいことでした。
自分は他人よりも評価されたい,というのは人間として当たり前のよくだと思っています。
しかし,一瞬,一瞬,自分がどういう存在であるのか,どういった評価をもらえる存在なのか,しっかり厳しく見極めていきたいと感じた。」

「その車夫がとった行動に驚いた。
24,5歳ということだが,その年では食べていくのに必死だったと思う。
でも,その車夫は祝儀を受け取らなかった。
それは見栄でもなく,当り前のようだった。
その生き方をしたい,と思った。」

「商売においてのみならず,貧困な考えでは,自分自身が成長できない。
そして,先生は,そのような不正行為をやめるとは言わず,自分のためにならないぞと我々に諭してくれているように感じた。
私は練習問題などにしっかりと取り組んだつもりだったが,楽をしてよい評価をもらう人が仮にいたとしたら,とても悔しい。
しかし,プライドと自身の成長のためにこれらからも努力しようと思う。」

「真面目に生きるということは簡単なことではないし,常に何かしらの誘惑と隣り合わせに生活しているけれど,もう一度,考え方などを見直してみて「心」という面で成長しながら生きていきたいと思いました。」

「人は,苦しく,辛い時だったり,逃げ道があるような時は,逃げたくなる問題に正面からぶつかろうとはしない人が多い。
しかし,それを乗り越えて,問題を解決していけば,それこそが人として成長できると思うし,必要とされる人材になれると思った。
もっと自分に厳しい人間になろうと決意した。
人の好意はありがたいし,すがりつきたくなるけれども,それをうけていいか判断できる人間になりたい。」

「自分もお釣りを多くもらったり,小銭を拾ったりしたら喜んでしまったことがあって,恥ずかしくなりました。
結局,世の中で成功するのは,正直ものなんだなと考えさせられたので,自分にも言い聞かせて生活しようと思いました。
ただ頭がいい人ではなく,そんなことよりも心がきれいな人になりたいと思いました。」

「私は,不正行為というものが身の回りで普通になりすぎて(席の周りでも,これであってるかな?という程度の声は聞こえてきたりする),不正したい人はやっていればいいという考えでしたが,やはりそのような考え方も恥ずべきだと思いました。
私は不正をすることはありませんが,周りの不正もなくなるようになるにはどうすればよいのかを考えようと思います。」

「その車夫の行為に素直に感動した。
おそらく私は嬉しい気持ちで,祝儀を受け取ると思う。
他の人々も相当な正義感がない人であれば,受け取るであろうと思う。
些細なことではあるが,5銭を受け取るかどうかで,その人の人間性というものが見えてくるのだと感じた。
たかが授業の一環の練習問題などでも,真面目にそれに取り組むことが大事だということが分かった。
小さいことに真面目に取り組めない人が,より大きなことに真面目になれるはずがないと改めて感じた。」

「他の授業で,今まで私は出欠票を出してもらったり,出してあげたりする時がありました。
また,それを恥ずかしいことだと思ったことはありませんでした。
大学生なら当たり前のことだと思っていたからです。
しかし,今日の授業で,それは恥ずかしいことであり,今後の自分のためにもならないと思いました。
大学の講義に限ったことではなく,車賃のようなことは日常生活でも多くあります。
私はそんなとき,公明正大な判断できるといいなと思いました。」

「私自身,中学,高校における,例えば英単語の小テストは真面目に受けたかと問われれば,すべてそうだと言い切れる自信はありません。
しかし,結果的に今と結び付けて考えてみると,損をしているのは自分自身であり,同時にそれに費やした他人の時間,思いも無駄なものとしてしまっています。
これを今度続けていくようでは損しか産まないことを近頃気づき,不正は一切行っていないのですが,今回のCDで,その認識・決意を改めて固くしました。
私は今,無駄にしたものを取り返すべく勉学に励んでおりますが,同時に心の成長をすることにも力を入れます。
先生の熱意は態度からもよく理解できました。」

「私は高校時代に何度か不正行為をしてしまったことがあります。
その時は,テストで点を取るためにと,自分で自分に言い聞かせていました。
でも,やはりしてしまったあとは,後悔や,もっと努力で来たのではないかと思うことがありました。
でもそれはもう行ってしまった後のことだったので,どうしようもないと思うようにしました。
車夫の人は,私とは違い,悪いことをしたわけではないのに,お金を多くもらうことを断り続け,自分の力で成功しました。
人には頼らずに自分の力で成功するのは大変だと思います。
それなのに,私は不成功をして,成功してよかったのだろうかと思いました。
それで将来自分は頑張って成功したと思えるのだろうか,人に言えるのだろうか,と考えました。
私は言えないと思いました。
恥ずかしいと思います。
なので,これからは自分の力だけで困難を乗り越え,将来自信を持って頑張ったから成功した,と胸を張って言える人になりたいです。」

「その車夫の方と同じような行動をしてきたのかなと過去を振り返ってみると,あまり同じような行動をしていなかったなと恥ずかしく思いました。
褒美として多めにいただけてラッキーだな,なんて甘く考えたのが,馬鹿だったなと感じました。
自分に見合うことくらいしかしていないのに,甘えてばかりいては部活動をやっている選手として,伸びない理由につながるんじゃないと思いました。
もっと初心のころのような気持ちを忘れずに,部活も勉強も取り組みたいと考えさせれました。」

「不正をして点数が取れればそれでいいと思ってしまったら,人として潔い生き方ができなくなってしまう。
不正や自分に見合わないことで成果を得ても,人間的にはなにも成長しないし,むしろ人間性が悪化していくと思う。
正直に生きて,何事にも公明正大に取り組むことで,それは自分の力となり,一人の人間として尊厳のある存在になれる。
そして,自分が誇れる人間になれれば,人からの評価もおのずと付いてくると考えさせられた。」

「この話を聞いて,本来の自分の力を表現していかないと,一向に伸びることも学ぶこともできないということを改めて感じました。
自分に甘くては,なんの成長もできない。
自分のこの先のために自分に厳しくしていきたいです。
将来のこと,今とても悩んでいるので,この話を聞けてよかったです。」

「この話を聞いて,自分は,あまり意識していなかったにせよ,誠実には過ごしてきてはいなかったと思いました。
大学に行くために上京して,両親が多大なお金を払ってくれているのに,真面目に授業に行くこともなかったことが,今頃恥ずかしいことだと思うようになりました。」

「自分が恥ずべき行動をとっていると思った。
普通にただ感心した。
このような考え方ができるような人になりたいと感じた。」




もちろん,松下幸之助氏の話に共感できないという人も,4,5人はいました。
でも,多くの学生がシンパシーを感じた模様です。

私は・・・ちょっと・・・涙がでそうになりました。
どうです!
中央大学の学生は!
闇を抱えている子もいるけれど,その闇の中から,必死に明りに向かって這いあがろうとしようとしているではありませんか!
今の学生は,まだ原石のままで日の目を見ていないところもあるけれど,すぐれた情操を持っています!

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