今日,3年生との臨時ゼミでびっくりされて,びっくりした。
アメーバ経営の研究を「したい」なんてことは,一度も思ったこともないし,発想したこともなかった。
なるほど,私がそれをしていると,それがしたいから,していると解釈されるのか…,と。
研究において「したい」の優先順位は著しく低い。
私がそれを研究するのは,人生を賭けて,長い時間をかけて,それをするのは,それが社会にとって意義があると考えるから,それ以上でもそれ以下でもない。
綺麗ごとに思われても構わない。
もし,意義ある研究に選択肢があり,それらの中からもし選好することがあるとしたならば,「したい」はあるかも。
が,そんなに選択肢は,そもそも私にはなかった。
私は,自分の師匠に,一度追究しようと思った道はとことん追究せよと教導され,その過程で「したい」は挟む余地もなかった。
「したい」があったとすると,30歳を超えてから。
アメリカに行ってから。
でも,自己決定理論も自己効力感も理論も,それを知れば知るほど,学べば学ぶほど,研究すればするほど,「したい」なんてものは,雲散霧消。
自己の欲求なんて,研究の前には…
ふと,こんな文章を書きたくなる。
一日が,あっという間に過ぎる。
学生と接し,ほっこりすることもある。
新しいことを創るために,心がかき乱されることもある。
俺は誰なのか,時に,自分が誰なのか分からなくなりそうになる。
自分を見失いたくない。
だから,書くし,そのために振り返るし,想う。
桑田佳祐に毀誉褒貶はあるだろう。
が,彼の「真夜中のダンディー」は,彼が吟遊詩人であることの証ともいえる。
https://www.youtube.com/watch?v=mFULNjf3KdI&list=RDr9Lj-bW8GTA&index=26
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