教授への昇進審査を受けて以来,十数年ぶりに,他者からの審査を受けた。
自分より若い研究者とのやり取りは刺激的だ。
正直,時流に合わすの苦手だし,共同研究も苦手だし,自分の関心のあることにしか目を向けられない,現代的な研究者としてはきっと私は失格なのかもしれない,と思う時もある。
でも,私が研究者になろうと思ったのは,他者や時流への迎合ができないという,自分のパーソナリティをしっかり見極め,これで一応一人前になれるか,それとも野垂れ死にするか,その択一を覚悟したうえでのこと。
今さら迎合なんてできない。
私は私のしたい研究しかできない。
日本でのガラパゴスと言われようとも。
だからこそ,自分の研究に妥協は一切ない。
自分が好きな研究に,妥協という言葉はない。
矛盾する。
こんな指導教授のもとのゼミ生は苦労するだろう。
私にとって「研究」とは,妥協を許さないサンクチュアリ。
ゼミ生なら分かるだろう。
高尾山なら,良い。
でも,峻険な山を登りたいのならダメだ。
妥協は,即,死を意味する。
なぜ,私が…
君らに死んでほしくないし,君らが「たまたま」登攀できてしまって(再現性なく),社会にでて滑落する危険性を容認したくない。
大事なことは登攀することではない。
どう登攀したか,だ。
そのプロセスにおいて,どう振舞ったか,だ。
たまたま登攀できることはある。
でも,それは大事なことではない。
大事なことは,そのプロセスにおいて,必要な振舞いを,必要なだけ,できたか否か。
これである。
たまたま登攀できたことを,私は褒めない。
単純なそれは,これからの諸君の失敗の危険性を増す所業に他ならない。
褒めりゃ良いっていう世間の風潮は,絶望の生起の可能性を高めることに等しい。
真の愛は,君は間違っている,君らは間違っている,と声を大きくして警鐘を鳴らすことだと私は信じる。
繰り返しになるが…
大事なことは登攀できたかどうかではない。
どう登攀したか,だ。
悔しがるのは,登攀できたか否かに,ではない。
登攀中にすべきことをできたか,できなかったか,そこ,である。