変わろうとして,なかなか変われない。
組織も,そしてその組織を構成する人も…,年をとると。
変われないことを,変えられないことを,色々な言い訳や,まことしやかな理由をつけて,正当化する人間の,なんとこの世に多いことか。
変わろうとして,変わり,そして成功した人間が評価される。これは,当たり前。
しかし,変わろうとして,変えることができずに失敗した人間と,変わろうとせずに,しかし結果としてうまくいってしまった人間を比較すれば,どうであろう…。
私は,前者が評価されるべきであると考える。
人間の世界の進歩は,変化から生まれる。
トライやチャレンジ,これらがなくなった世界はどうなるのか?
失敗と成功は,評価の主軸ではない。
変化へのチャレンジに邁進したか,これである。
もし,結果が評価の趨勢を決めてしまうのならば,人はきっとそのプロセスを効率化しようとするであろう。プロセスは,結果を得るための手段であり,手段である以上,それは楽な方がいいに決まっている。しかし,それでは所期の結果がえられる確率は高まるかもしれないが,人類の安寧に直結するような大きなブレークスルーは生まれない。
大きな変革を企図しようとする場合,成功あるいは失敗といった「結果」は,しょせん偶然の総合的所産なのである。
しかし,変化するかしないかは,「意志」を拠り所とする。
年をとるとと,「意志」の力が弱まる(ように見える)。
したがって,「結果」で決定を正当化しようとする。
現状に甘んじることを恐れなくなる。
このメカニズムが,「変化」に「結果」がついてきて起こる「進歩」を,「結果」として妨げる。
年寄りには世界は変えられない,若い人間こそ世界を変える,この格言の深奥には,その理解がある。
私は,変化を恐れることを,恐れる。
変われない,自分を。
変えられない,自分を。
「伝統」とは,変わらない,あるいは変えない,ということではない。
ある意味,「ファンを維持しつづけること」であると考える。
変わらずに,中央大学が,今までの,歴史の中にある中央大学であり続けることができるのか?
学生は,我が大学を,一方の私学の雄として位置付けてくれるのか?
変わるべきところと,変えるべきではないところを峻別し,変わるべきならば決然として変わる(変える),これこそ今の大学人に要求されている,否,今の日本人に必要とされていることなのではないであろうか。
年寄りは,変わらずとも,近々のうちにその身を在野に散らせることになる。
しかし,変わらずんば,いずれその組織が跡形もなくなるかもしれない,そのリスクにさらされるのは,若き「たてがみ」どもである。
変わることを邪魔する,灰色のハイエナにはなりたくはない,決して。
たてがみに雪がちりばむ頃,望まれれば,その変化の最前線に立ち,真っ先に倒れる,そんな白狼として朽ちていきたい。
ここまで書いて…,尾崎のスクラップアレイを思い出した。
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