2011年3月29日火曜日

あるいは私も

あるいは私もいつかボロボロになるかもしれない。
学生を,ゼミを,そして大学を,愛せなくなる日が来るかもしれない。
その時,私は。

しかし今は
善意の背信にさらされるくらいなら
糾弾され責めを負うことをどうして恐れよう。

しかし今は
裏切られても,裏切られても,彼らを信じよう。
培われてきた紐帯にふれることができるなら。

そうして私はまた立ち向かう。
真摯な心のかけらを糧に。

そして羽ばたく愛すべき者たちは
振り返らず力強く。
それでいい。
まだまだ,私は。

2011年3月25日金曜日

希望を持とう

この絶望のとき,いや絶望の時だからこそ,現在の状況を望ましい方向に変えることができるのだと信じよう。

変えたいと思う望ましい未来を描こう。
それこそ「希望」を持つ,ということである。

希望が希望として人々に「もやい」(連帯・共同)されるとき,それは未だないが「存在」するものとして,社会の現実となりうるのである(玄田有史ほか『希望学1』東京大学出版会)。

2011年3月23日水曜日

そして未来へ

本来であれば,本日は渡辺ゼミ6期生の卒業コンパの日であった。
東北関東大震災の影響から中止と相成ったことは既に書いた。
既に7期生などから集めていたコンパ会費は,全員の合意のもと,被災地への義援金とすることとされた。
近々のうちに,日本赤十字社に振り込みが行われることであろう。

卒業生には,次の言葉を贈りたい。
未曽有の国難を受け,これから日本は,長期的に塗炭の苦しみをなめ続けることになるかもしれない。経済は失速し,政治は混迷し,人々の醜悪な部分が噴出し,一時的にカオスに陥るかもしれない。

しかし,たとえ汚泥にまみれても,誰に恥ずかしがる必要があろう。もともと,そのかぶった泥は,日本国民が,自らの過去の行いによって生じせしめた「醜いもの」の堆積物である。

しかし,我々は必ず立ち上がる。そして,これから諸君は,その汚泥を一身に受け,それを振り払い,あるいはそれを身にまとったまま,しかしそれをものともせずに,歩き続けなければならない。常に前つんのめりに歩き続けてほしい。その行き着く先には,「新生日本」が必ずある。諸君はその先兵なのだ。

この混迷の時代に,「未来」を描くことは難しいかもしれない。しかし,それを思い描き,それに向かって研鑽を続けなければ,それは決して実現しない。各々が,各々の未来を描くと同時に,社会全体の未来像を築構することができれば,それらに傾斜して,どんな苦しさ,辛さ,哀しさにも耐えることができる。

不運をかこち,現実に失望するのではなく,未来に思いをはせよう。瓦礫と放射能の地にも,未来を予期させる曙光がみえ始めているではないか。自らの身を犠牲にして戦う男たちがいるではないか,泥沼の中赤ん坊を必死に抱きしめる母親がいるではないか,自らより祖母の救出の優先を願う青年がいるではないか,憎悪の濁流にのまれることも恐れず職務を全うした女や男たちがいるではないか。

未来は必ず創造される。しかし,それは一人ひとりの努力研鑽の果てにある。諸君ならば,やってくれる,私はそう強く信じている。6期生の諸君には,4月以降,各々がその職務・研究に奮闘されんことを期待する。

中央大学商学部
准教授 渡辺岳夫

2011年3月21日月曜日

震災後

震災後の翌日(12日)と翌々日(13日)は,安全性の確認と危険物の除去のため,大学当局より大学構内への入構が禁じられた。
14日には,入構可能となったので,研究室に向かう。
ドアを開けると,本棚のガラスが飛散していたエリアが,若干片付けられていた。
聞くと,ドアが開かなくなった研究室は,高層の建物なのに窓側に回り込み,それを一部破壊し,入室し,障害物を除去したという。震災当日の学生誘導や対応を見ても,事務方は実によく頑張られていると思う。

改めて研究室全体を見回すと,片付ける意欲がなくなるくらいのあり様であった。
気力を振り絞り,まずはガラスを片付ける。
本棚にまだへばりついているガラス片を除去し,落ちている大きめのガラスを拾い,粉々になっているガラスは掃除機で吸い取る。これだけでゆうに1時間はかかる。
その本棚に入れておいた,アメリカで購入した大事な置物が壊れていることに気づく。残念。
結局,14日丸一日かけても完全には復旧できなかったが,おおむねは終了した。

しかし,その後,日々増える死者・行方不明者,そのご遺族の方々,さらには被災され非難されている方々に思いをいたし,心がきしむ日が続いている。

そして,わがゼミは,3月23日に予定されていた卒業コンパを中止することに決定した。
残念である。非常に残念である。
理由はいくつかある。
第一に,死者・不明者が2万人を越え,被災され非難されている多くの皆さまが苦しんでおられるときに,賑やかな会を開くことは慎んだ方がよい,ということ。
第二に,23日晩は多摩市では,スケジュール的には計画停電にあたっており,その場合,予約している店そのものが閉店されてしまうこと。ただし,今まではスケジュールどおりに停電が行われていないので,現時点では停電帯に入っていても,当日,その通りになるかは分からないが。
第三に,17日のように,急きょ大規模停電の可能性が生じると,ダイヤが大幅に乱れ,参加者の中には帰宅が困難になるものも出てくること。
第四に,余震が続いている中,全ゼミ生を集める事は,リスク管理上,避けるべきであると考える事ができること。
第五に,被災地以外の多くの東北・関東の市民が節電にいそしんでいる時に,夜間に会を開くことは慎むべきであると,ということ。

よもやこのような事態に陥るとは,震災直後には思いもしなかった。
6期生の一人ひとりの顔を思い浮かべると,最後の最後に,心ゆくまでその未来をきちんとした形で祝ってやることができないことに,哀しくてしょうがない。
無念である。
彼ら彼女らには,たくさんの記念品がある。
卒業式は中止になったが,卒業証書の引き渡しは25日に行われるので,その日は一日,研究室を開放し,現れた卒業生にはそこで記念品を渡し,かつ語り合うことにした。
湿っぽくならないよう,明るく接したいと思う。

大震災

3月11日午後2時46分。
その時,7階建ての建物の6階でゼミを行っていた。
春休みではあるが,新4年生と新3年生を集めて,卒論に関する報告と,経営学,会計学,あるいは心理学に関する良書に関する報告が行われ,それをめぐって議論が行われているときであった。
それは,小さな揺れから始まった。
またか。最初は,そう思った。
しかし,その横揺れは徐々に大きくなり,天井の電灯が落ちんばかりになった。
急きょ,ゼミ生全員を廊下に追いやる。
すると,廊下の床はうねり,窓の外を見ると,外の光景が大きく揺れていた。
壁を手で押さえていないと,立っていられなかった。
そして,長かった。
恐怖を感じた。
その15日前ほどにニュージーランドで地震があり,大きな被害が発生したが,それによって倒壊したビルの姿が脳裏に浮かんだ
一瞬,死の文字がよぎった。
それほど大きな,かつて経験したことがない地震であった。
とてつもなく長く感じられた地震もようやくおさまり,学生を校舎の外に出した。

学生を安全な場所に退避させたのち,次に研究室のことが心配になった。
研究室には,今までの人生をかけて作り上げてきた研究の素がつまっている。
急いで,研究室に向かう。
しかし,エレベータは緊急停止中。
12階まで,一気に駆け上がる。
途中,多くの先生や職員の方が,避難のために降りられるのとすれ違う。
息を切らして,研究室にたどりついたものの,ドアが開かない。
本棚が倒れ,ドアをふさいでいるのかと思い,一瞬入室に絶望する。
しかし,何度かドアを押していると,若干動く。
無理やり手を押し込むと,本棚から落下したたくさんの本が邪魔をしていることに気づく。
10分ぐらいかけ,少しずつ本を取り除き,ようやく人が入ることができる程度まで,ドアが開く。
本棚から落ちた本と資料類で埋まり,パソコンは倒れた,無残な光景が瞼に広がった。
















一瞬目をつむり,目を転じると,本棚のガラスが割れ,飛散した状況が目に入る。
暗澹とした気持ちになるが,気を取り直し,奇妙な音を発しているパソコンまでたどり着き,スリープ状態をいったん呼び起こし,シャットダウンする。

そこで,再び大きな余震が。
恐怖を感じ,急いで,うねる非常用階段を急いで駆け降りる。
すると,緊急避難所に指定されている,さくら広場近辺に,春休み中もこんなに多くの学生や職員がいたのかと思うほど,多くの人たちが参集していた。
そこで学生たちと,しばし,呆然と立ち尽くす。
ふと我にかえり,自宅に電話。
でも携帯電話は使い物にならない。
生協前の固定電話が通じ,自宅は無事との報に接し,ほっとする。
東北出身の学生も,家族は無事とのことがわかり,安心した様子。
固定電話の災害時における有用性を認識する。

すべての交通機関が停止した。
徒歩圏内の学生以外は帰宅不能。
比較的寒い日だったので,通常は教授会が開かれる大きな部屋が解放され,そこで少しは寒さが防ぐことができた。
それでも,この時点では,数時間すれば,電車は動き出すととたかをくくっていた。
この日は,新4年と新3年のゼミ長・副ゼミ長を自宅に招き,会食する予定であった。
家内が食事を準備していることもあり,電車が動き出しさえすれば,車で自宅に彼ら彼女らを連れて行ってもよい,その時はまだそう思っていた。
しかし,電車は動かない。
午後7時時点で,大学の職員より,本日はJRがすべて運休する予定であることが告げられる。
この時点で,ことの重大性を再認識する。
モノレールは動き出したとのことで,その沿線に下宿する学生宅に,遠方の学生は泊まるよう指示し,その割り振りを行う。自宅が比較的近くの学生3人については,自宅まで私が送ることにした。
かくして,多くの学生たちの安否を気遣いながら,ゼミは解散した。

まず,八王子駅近辺に住む学生を送ることにする。
しかし,大渋滞。
びくとも動かない。
ようやく駅まで1キロのところまで着くと,そこから徒歩で帰宅させる。
この時点で,9時になっていた。
自宅からの電話では,豊田駅近辺の高校に通う娘が,校舎内で迎えを待っているという報が入るが,最初に新4年生の副ゼミ長を中河原まで送ることに。
しかし,聖蹟桜ヶ丘駅近辺も大渋滞。
ここからなら歩いて帰ることができるとのことなので,下車してもらう。
そこから,急いで娘の高校に迎えに行き,到着したのは午後11時を過ぎていた。
娘と,その友達で帰宅困難な子をつれ,帰宅したのは,午後12時近かった。

自宅のテレビに映っている風景は,地獄絵図。
この世のものとは思えなかった。

2011年3月10日木曜日

春合宿

先週,三泊四日の春合宿を行った。
内容的には,新3年生は組織行動の書物を担当章を2名1組でプレゼンし,新4年生は卒業論文のテーマについての報告を行った。これは例年通り。
少し変えたことは,昨年は,上記の課題以外にグループワークや即興劇などを行ったのに対して,今回は心理学や統計学に関連するアクティビティをかなり多めにやったことである。たとえば,統計の基礎として,サンプルと母集団に対する理解や分散の理解などを進めるために,M&Mチョコを使ったアクティビティを行ったが,好評であった。
いくつか失敗したものもあるが,全体としては,良かったと思う。

しかし,三泊は疲れる。さすがに。
この2年あまり,体をある程度鍛えているので,なんとか乗り切ることができたが,あと10年経ったら,果たして同じことができるだろうか…。

新3年生(8期生)は,この合宿ではじめて「渡辺ゼミ」なるものに参加したことになる。
最初は,どの期もそうだが,8期生もまたちょっと発言が少ない。
これは,これからきっと改善されるだろうが,全体としておとなしめの子が多いかも。
成長がとても楽しみである。

新4年生はシュウカツ中にかかわらず,ほとんど学生がフル参加してくれた。
この時期,4日間ブランクがあくことが,就職活動においてどのような意味を持つのかは,私も理解している。しかし,彼ら彼女らはゼミを優先してくれた。どんなことがあっても,今後,彼ら彼女らをフォローしていくつもりである。
目先の利得に紛らわされない人物こそ,長期的にみた場合,企業にとっても望ましい人材になるのではないであろうか。機会があるたびに,このことを訴えたいと思う。ぜひ,彼ら彼女らのような人物を採用してほしい,と。きっと,会社が危機に直面した時に,最後の最後に自己を滅して会社を守ろうとする人間は,彼ら彼女らのような人間なんですよ,と。