2011年3月21日月曜日

大震災

3月11日午後2時46分。
その時,7階建ての建物の6階でゼミを行っていた。
春休みではあるが,新4年生と新3年生を集めて,卒論に関する報告と,経営学,会計学,あるいは心理学に関する良書に関する報告が行われ,それをめぐって議論が行われているときであった。
それは,小さな揺れから始まった。
またか。最初は,そう思った。
しかし,その横揺れは徐々に大きくなり,天井の電灯が落ちんばかりになった。
急きょ,ゼミ生全員を廊下に追いやる。
すると,廊下の床はうねり,窓の外を見ると,外の光景が大きく揺れていた。
壁を手で押さえていないと,立っていられなかった。
そして,長かった。
恐怖を感じた。
その15日前ほどにニュージーランドで地震があり,大きな被害が発生したが,それによって倒壊したビルの姿が脳裏に浮かんだ
一瞬,死の文字がよぎった。
それほど大きな,かつて経験したことがない地震であった。
とてつもなく長く感じられた地震もようやくおさまり,学生を校舎の外に出した。

学生を安全な場所に退避させたのち,次に研究室のことが心配になった。
研究室には,今までの人生をかけて作り上げてきた研究の素がつまっている。
急いで,研究室に向かう。
しかし,エレベータは緊急停止中。
12階まで,一気に駆け上がる。
途中,多くの先生や職員の方が,避難のために降りられるのとすれ違う。
息を切らして,研究室にたどりついたものの,ドアが開かない。
本棚が倒れ,ドアをふさいでいるのかと思い,一瞬入室に絶望する。
しかし,何度かドアを押していると,若干動く。
無理やり手を押し込むと,本棚から落下したたくさんの本が邪魔をしていることに気づく。
10分ぐらいかけ,少しずつ本を取り除き,ようやく人が入ることができる程度まで,ドアが開く。
本棚から落ちた本と資料類で埋まり,パソコンは倒れた,無残な光景が瞼に広がった。
















一瞬目をつむり,目を転じると,本棚のガラスが割れ,飛散した状況が目に入る。
暗澹とした気持ちになるが,気を取り直し,奇妙な音を発しているパソコンまでたどり着き,スリープ状態をいったん呼び起こし,シャットダウンする。

そこで,再び大きな余震が。
恐怖を感じ,急いで,うねる非常用階段を急いで駆け降りる。
すると,緊急避難所に指定されている,さくら広場近辺に,春休み中もこんなに多くの学生や職員がいたのかと思うほど,多くの人たちが参集していた。
そこで学生たちと,しばし,呆然と立ち尽くす。
ふと我にかえり,自宅に電話。
でも携帯電話は使い物にならない。
生協前の固定電話が通じ,自宅は無事との報に接し,ほっとする。
東北出身の学生も,家族は無事とのことがわかり,安心した様子。
固定電話の災害時における有用性を認識する。

すべての交通機関が停止した。
徒歩圏内の学生以外は帰宅不能。
比較的寒い日だったので,通常は教授会が開かれる大きな部屋が解放され,そこで少しは寒さが防ぐことができた。
それでも,この時点では,数時間すれば,電車は動き出すととたかをくくっていた。
この日は,新4年と新3年のゼミ長・副ゼミ長を自宅に招き,会食する予定であった。
家内が食事を準備していることもあり,電車が動き出しさえすれば,車で自宅に彼ら彼女らを連れて行ってもよい,その時はまだそう思っていた。
しかし,電車は動かない。
午後7時時点で,大学の職員より,本日はJRがすべて運休する予定であることが告げられる。
この時点で,ことの重大性を再認識する。
モノレールは動き出したとのことで,その沿線に下宿する学生宅に,遠方の学生は泊まるよう指示し,その割り振りを行う。自宅が比較的近くの学生3人については,自宅まで私が送ることにした。
かくして,多くの学生たちの安否を気遣いながら,ゼミは解散した。

まず,八王子駅近辺に住む学生を送ることにする。
しかし,大渋滞。
びくとも動かない。
ようやく駅まで1キロのところまで着くと,そこから徒歩で帰宅させる。
この時点で,9時になっていた。
自宅からの電話では,豊田駅近辺の高校に通う娘が,校舎内で迎えを待っているという報が入るが,最初に新4年生の副ゼミ長を中河原まで送ることに。
しかし,聖蹟桜ヶ丘駅近辺も大渋滞。
ここからなら歩いて帰ることができるとのことなので,下車してもらう。
そこから,急いで娘の高校に迎えに行き,到着したのは午後11時を過ぎていた。
娘と,その友達で帰宅困難な子をつれ,帰宅したのは,午後12時近かった。

自宅のテレビに映っている風景は,地獄絵図。
この世のものとは思えなかった。

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