大学の教員は,高校,中学,小学校の先生と違い,教職課程を経ていない。
また,もともと「先生」になりたくて,大学の教員になっている人間は,そう多くはない。
多くは「研究者」になりたくて,今のポジションにいる。
なかには「先生」になぞなりたくない人もいるかもしれないし,なった気だけで本質的に「先生」になぞなれていない人間もいるかもしれない。ひょっとしたら,私もそうかもしれない。
しかし,ゼミの活動を通じて,特に感じるのだが,私自身は「先生」でありたい。
そう思うのは,学生が成長するプロセスに,少しでも貢献できることに,たまらない喜びを感じるからだ。それは研究において,良い論文を書くことができたり,少し他の人に評価してもらったときに感じる喜びより,ずっと大きいような気がする。なぜそうなのか,分らない。でも,そう感じるのだ。
出版社の編集の方に,時々,ゼミにかかわるのもいい加減にしなさい,と叱られる。
なるほど,ひょっとしたら,私は同世代の研究者より,まとまった成果物を出すのが遅れているかもしれない。もちろん,研究に精進しなければ,学生に対する教育も錆びてくる。研究は好きだし,おろそかにするつもりはない。
しかし,教育に時間を費やすことを放棄することもできない。
学生に嫌われてもよい。手抜きをすることなく,全力で立ち向かい,彼らの変化の瞬間に立ち会いたい。その願望がどこから生じるのか,頭では分らない。
私の伯父は,40年近く高校の理科の教師であった。
何度も大学の研究室に誘われたらしいが,一生,高校の,それもさしてレベルの高くない高校の「先生」であった。
10年ほど前に亡くなったが,その前に何度も大きな手術をした。
いつお見舞いに行っても,何人か教え子が病室の前にいたような気がする。
私の結婚式で黒田節を真っ赤になって歌ってくれた伯父は,私が大学の教員になってから会うたびに言ってくれた。「岳夫,偉くなったな」。
私が教員になって早くも14年が経つ。
でも,私はまだぜんぜん偉くない。
伯父の言葉に胸を張って向き合えることができる日は,果たしてくるのであろうか。
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