働くとは…人が動くと書く。
そして,人が動くとき,そこには「意図」や「意思」があるのが本来の姿。
かつて感覚遮断という実験がアメリカで行われた。
もう60年以上も前のこと。
目隠しをされ,音も遮断され,手には筒をつけられ何も触ることはできない状態にされたら,人はどうなるであろう?
これがリサーチクエスチョンの実験室実験。
もちろん生理的な欲求はきちんと充足させてあげる。
御飯も食べられるし,トイレにも行ける。
ただ,上記のような状態で,一室でずっと過ごしていればいいってのが被験者に与えられた課題。
この実験に参加すれば,当時とすれば破格のバイト代がもらえる。
さぁ結果は…というと,1日以上,その状態に耐えられた人はほとんどいなかった。
無理して耐えた人には脳波に異常が生じたりして,危険な状態だったという。
どうしてでしょう?
人は能動的に環境に働きかけ,それを効果的に変革したいという本来的な欲求を有しているというのが,当時の学者の解釈。
つまり,人間はただ動ければいいわけではなく,そこに意図や意思を持ち,なんらかの変化を外的環境にもたらすように動くことで,精神的な均衡を保つことができるということ。
つまり…働くという際には,そこに自らの意思や意図を持たなきゃ,精神的なバランスを保ちつつ,長く続けられはしないのである。
ところで,「休む」という概念は,「働く」という概念が存在してこそ成立するものである。
人間の本来的傾性を上記のように解釈した場合,その逆はありえない。
したがって,どう休むかということを考える場合,まずもってそれに先立ちどう働くかということを考えなければならない。
そこを間違えちゃいけない。
そこを誤解した議論の,世の中になんと多いことよ。
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