最近,自分の研究関心から,信頼,希望,見通しといった概念の本を読む機会が増えた。
ユダヤ人の心理学者であるヴィクトール・フランクルが,自らのアウシュヴィッツ収容所体験をもとに執筆した『夜と霧』の記述は,非常に興味深いが,あの強制収容所の地獄のすさまじさに思いをいたさざる得ない。
「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
これはニーチェの言葉である。
希望があれば人間はどんな苦難にも耐えられるということであろう。
逆にいえば,人間は希望を失えば,生きていくことは難しいと言うことも意味する。
フランクルの書物は,このことを,極限状態のユダヤ人を観察することによって証明している。
ある男が夢を見たと言う。
1945年の3月30日に戦争が終わる夢を。
しかし,3月29日にその見込みがほとんどないことが分かった。
そして,その男は3月30日に死んだ。
腸チフスであった。
フランクルは言明する。
戦争終結がかなわず,ひどく落胆し,すでに潜伏していた発疹チフスに対する抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだと。
儚い夢を希望として胸に抱き,その男は収容所の地獄を生きたのである。
そして,何の根拠もない希望が崩れたときに,死んだのである。
人は何と強く,そして脆いものか。
また,フランクルは言う。
1944年と1945年のクリスマス後,大量の死者が出たと。
収容所の医者は言う。
それは,過酷さを増した労働条件からも,悪化した食糧事情からも,季節の変化からも,あるいは新たに広まった伝染性の疾患からも説明がつかないと。
多くの収容者たちは,クリスマスには家に帰れるという,何の根拠もない「素朴な希望」にすがっていたのだ! 何の…ほんとに何の…根拠もない…。
そんな素朴な希望でも,それがなくなれば,死を導く急激な抵抗力の低下を招くのだ。
今の日本では,希望をもちにくいと言われる。
特に若者が。
しかし,果たしてそうか?
あの絶望の収容所でも,人は希望をもった。
希望は与えられるものではなく,自ら見つけ抱くものであろう。
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