村上春樹氏の小説は、食わず嫌いをしていた時期もあるけれども、歳をとってから代表作ぐらいは読むようになった。
ラジオで音楽番組のパーソナリティをされていて、それを聞く機会が何度もあり、村上氏の言葉の使い方に非常に心地よさを感じ、好感度が上がりつつあった最近だが…
その村上氏が母校の早稲田大の入学式で語った言葉。
心地よい。
深いのだが、うんそうだよなぁ、そうなんだろうなあ、ってなぜか容易に納得させられてしまいそうになる。
小説を読まない人は、心の未知の部分を探り当てられないよ!
https://www.sankeibiz.jp/econome/news/210401/ecc2104012300006-n1.htm
以下、引用。
心を語ろうというのは、簡単そうで、これがけっこう難しいんです。
というのは、僕らは普段、これが自分の心だと思っているのは、僕らの心全体のうちのほんの一部分にすぎないからです。
つまり、僕らの意識は、心という池からくみ上げられた、バケツ一杯の水みたいなものにすぎない。
残りの領域は手つかずで、未知の領域として残されています。
でもね、僕らを本当に動かしているのは、その残された心なんです。
意識や論理じゃなくて、もっと広い、大きい心です。
じゃあ、その心という未知の領域を、僕らはどうやって探り当てればいいのか。
自分を本当に動かしている力の源を、どうやって見つけていけばいいのか。
その役割を果たしてくれるものの一つが物語です。
物語は、僕らの意識がうまく読み取れない心の領域に、光を当ててくれます。
言葉にならない僕らの心を、フィクションという形に変え、比喩的に浮かびあがらせる。
それが、僕ら小説家がやろうとしていることです。
それは例えばこういうことなんだよ、というのが、小説の基本的な働きです。
『例えば』という、一段階置き換えられた形でしか表現できないものがあります。
回りくどいといえば、回りくどいですよね。
だから、小説というのは、直接的には社会の役にはほとんど立ちません。
何かがあっても、即効薬やワクチンみたいなものにはなりません。
でもね、小説というものの働きを抜きにしては、社会は健やかに前には進んでいけないんです。
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