2020年9月23日水曜日

世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る

今日は教授会を始め会議だらけで、だいたい7時間くらい費やし、臨時ゼミもこなし、へとへとではあるのだが…

ちょっとタイトルの句に関して書いてみたい。

 世間の人がなんと言おうと,自分がすることの意味は自分さえ分かっていればいいんだ,という坂本龍馬の有名な句。

少しこの句の意味するところを,内発的動機づけ理論の大家であるE.L. Deciの動機づけに関する有機的統合理論に照らして検討してみよう。

有機統合理論は,ややもすれば相互に排他的に捉えられがちな内発的動機づけと外発的動機づけを、別の観点から照射しようとする。

課題遂行それ自体に喜びや満足を感じ、そういった内的な欲求充足を目指して行動を生起させている状態(内発的動機づけ)に到達できれば、創造的な成果につながるし、その状態自体を経験することが精神的に望ましい。

これが理想だが…龍馬の行動もどうやら、これとは若干違うようだ。

内発的動機づけは、それが昂じた場合、楽しさで時が経つのも忘れ、いわば「我を忘れた状態」となる。

そこにはあまり行動の「意味」は関係ない。

しかし、龍馬は「意味」ある行動をとろうとしている。

うむ。

では、龍馬はいかなる状態に到達していたのだろうか?

学校の勉強を想起してほしい。

別にしたくてしたわけではないけれども、先生に怒られるから、あるいは褒められるから、勉強したことも多いだろう。

これはバツの回避のため、あるいは言語的報酬のために、勉強をしている状態(外的動機づけ)であり、アルゴリズムのある課題(暗記とか)の解決には一定の効果があるけれども、創造的課題には向かないし、精神的にもあまり望ましいとは言えない。

しかし、自尊心が芽生えてくると、怒られるからというよりもむしろ、周囲の友達に怒られているところを見られるのが恥ずかしいから宿題や勉強をするといった状態(取入的動機づけ)になることがある。

龍馬の行動が、自分が何かを得ようだとか、他の人にの評価を気にして生起しているのではないことは、その生涯を振り返れば自明であろう。

うむ…では?

ところで、最初はバツの回避だとか、人の目を気にしてだとか、そういった理由でしぶしぶしていた勉強もやり始めてみたら、意外と楽しかったという経験がある人もいるのでは?

外的動機づけや取入的動機づけは、典型的な外発的動機づけのタイプだが…未知の行動の始発の際にありがちな状態でもあり、その後ハマりさえすれば、内発的動機づけに到達しうることもあるということ。

これが有機的統合理論のミソ。

ところで、龍馬の行動である。

外発的動機づけのタイプの中でも、内発的動機づけほどではないが、かなり自律性の程度が高いタイプもある。

同一化型動機づけと統合型動機づけが、それである。

前者は、その行動に社会的な「意味」を見出し、自ら積極的に行動に従事している状態である。

後者は内容的には前者とかなり近いのだが、もうその行動をすることが自分であるといったぐらいまで、その行動と自己と統合している状態である。

例えば、高齢者介護という仕事に意味を見出して積極的に従事しているが、時に汚れ仕事などに嫌悪感を感じてしまうなどの場合は、同一化型動機づけ。

統合型動機づけでは、もはや高齢者介護という仕事をするのが、自分が自分たるゆえんであるというレベルまで達しているので、嫌悪感すら感じない。

うむ、どうやら龍馬の行動は、統合型動機づけで説明できそうだ。

…が龍馬の凄いところは、その行動の社会的な意味が顕現化しておらず、潜在化している状態において、つまり社会がその意味に気づいていない時点でその意味に気づき、その行動に自己を統合させてしまっているところ。

社会が追いつくまでは、社会はその行動に意味が分からず、その行動主体を押しつぶして飲み込もうとする。

龍馬はその流れにあらがって、統合型動機づけを貫徹した。

最後は、社会に飲み込まれてしまったが、龍馬が追求しようとした「意味」は萌芽し、やがて大きく育つことになる。

誰もが意味があると思ってくれる行動を実践することは、ある意味誰でもできる。

しかし、まだ誰もその意味を理解してくれない行動を貫徹することは、すこぶる難しい。

ましてや辛いとも思わないレベルにまで、その行動を自己に統合するのは。

しかし、組織や社会を大きく変える人は、それがきっとできる人であろう。

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