2015年5月23日土曜日

レジリエンス

今日の早朝は爽やかな良い天気でした。
そんな好天のもと,東京23FCの若手選手と,近所のサッカークラブのちびっこ達と,西葛西駅周辺をゴミ拾いした。
街が綺麗だと気分いいよね。
その後,クラブ事務所で,江戸川区のサッカー連盟の理事長のお話しを聞き,さらに,これまで東京23FCの現場の運営を支えてきた西葛西のスポーツビジネスの専門学校の先生や学生さんたちと交流する。
ちょっと問題があり,学生たちを叱り飛ばすシーンもあったけど,まぁ有意義な半日を過ごすことができたんじゃないかな。

お昼過ぎに学生たちと解散して,どうしようかちょっと迷う。
知り合いから,大仁田厚のプロレスを見に来ないかと誘われていたから。
学生と一緒に無料で良いよ,とのこと。
プロレスに興味はないが,未知のことに触れるのは好きだから。
でも,流石に体が重いし,しなけりゃいかん仕事もあったし・・・。
断念する。
その代り,西葛西からの帰りに,大きな神社に寄ってお参りをしてから帰宅する。

で,今一休みしながら,これを書いているわけだが・・・。
横目で,BSの「ザ・インタビュー」を眺めている。
桑田真澄が語っている。
実は桑田氏は,私と同い年。
彼は,高校時代,甲子園で大活躍していた。
高校卒業後,読売ジャイアンツに入団したわけだか,その時の新聞報道が影響したのか,私は桑田氏があまり好きではなかった。
私が彼を再認識したのは,選手としての晩年,39歳の時,メジャーリーグのパイレーツに入団し,いぶし銀の活躍をし始めた時だった。
同世代の人間が挑戦し続けている姿に,とても勇気づけられた。
彼の努力はきっと凄まじいものであったろう。
それに比べれば,自分の努力なんてまだまだだと。
そう考えると,頑張れた。

その彼がテレビで語っていたのは・・・
彼の身長は私と対して変わらないし,身体的にはむしろハンデを背負っていた。
中学時代に大活躍したが,PL高校に入り,清原和博ら同級生に接し,自分の能力の無さに打ちのめされたという。
痛烈な挫折感を味わったという。
そこから彼がどのように這い上がったのか。
表の努力と裏の努力。
彼が意識したのは,この二つの努力だった。
表の努力とは,体を鍛えたり,野球の技術を磨いたりすること。
裏の努力とは,トイレを掃除したり,ルールを守ったり,人の見ていないところで人としてすべき事をすること。
この二つの努力をすることにより,運と縁とツキと気づきが得られたという。
その後,彼は1年生でエースとしてPL学園に君臨し,清原とKKコンビと呼ばれ,甲子園で何度も優勝することになる。

で,高校卒業後,ジャイアンツに入団することになるが,プロの世界には怪物のような連中がたくさんいた。
例えば,江川卓。
彼はそこでも痛烈な挫折感を味わうことになる。
彼はそこでどうしたのか?
自分にできないことをできるようにするために,とにかく先輩に分らないことを質問したという。
江川は桑田を「ミスタークエスチョン」と読んだそうだ。
その結果,2年目には最優秀防御率賞をとり,球界の代表的な投手に与えられる沢村賞も受賞することになる。

また,桑田といえば,ジャイアンツ入団の時の不透明な裏取引が取りざたされ,マスコミやファンからは,ヒールとして位置づけられていた。
あることないことを取りあげられ,投げる不動産屋とか,借金王とか揶揄された。
一時は自殺を考えた時もあるそうだ。
しかし,そんな時,当時の藤田監督が,「私はお前を応援し続ける」といってくれたことに感激し,それ以降,どんな誹謗中傷にも耐えることができたそうだ。

しかし・・・彼が絶好調の時に,当時としては投手生命につながるとされた靭帯断裂を経験する。
常に全力プレーの桑田氏は,打ち上げられたフライをとるためにボールに向かって激しくダイブし,右腕に致命的な怪我を負ってしまったのだ。
しかし,上記のような苦難を経てきたことで,彼は決してあきらめなかった。
20代後半で見事カムバックし,その後メジャーリーグも経験し,40歳まで現役を続けたのだ。
そして,私が今でも記憶しているのは・・・
カムバックの試合で,彼はまたもやフライに対してダイブしたのだ!
周囲はその瞬間大声叫んだ,飛ぶな!
が,彼はダイブした。
一瞬,球場が凍りついたようになった。
彼は語る。
私はプロですから,常に全力でプレーしなければなりませんから,と。
心から感動した。
さらに劇的なのは,その試合で,すでに同僚になっていた清原がホームランを打って,桑田の勝利を後押しするんだよね。

桑田氏のお話しのなかには,レジリエンス研究のヒントが盛りだくさんだ。
ね,洋太郎,萌。

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